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一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております
山崎方代 (『こおろぎ』)
恋というのは何度もあるものかもしれないが、「本当の恋」といえるものはどれほどあるか。作者が六十代の頃の作品であるが、歌ではそれは一度だけあったと詠まれている。
視点の移動や複雑な言い回しがなく、この簡潔さ、丁寧な言葉たちによって読み手も口を噤んでしまう。
南天の実は冬に見られる。冬の、どこか耐え忍んだ静かなイメージの中に、その実の鮮やかな赤が「本当の恋」を彩っている。

わたしがこの歌と出会った時に思い出したのは、授業で習ったドイツのWalther von der Vogelweide のミンネザングである。
ミンネザングとは、既婚の女主人への成就しない(してはいけない)宮廷騎士の恋愛詩である。時代は12世紀ルネサンスで、現世の喜び、感覚の喜びが高らかに歌われている。
そこでは女の人の視点で、男性との色恋沙汰を最初は詳しく語るものの、最後の節では
wes er mit mir pflege,
niemer nieman
bevinde daz, wan er und ich,
Und ein kleinez vogellin,
tandaradei,
daz mac wol getriuwe sin.
(彼と自分が何をしたのか、決して誰にも知られませんように。
彼と自分と、そして一羽の小鳥のほかには。
タンダラデイ
小鳥はきっと秘密を守ってくれるでしょう。)
と歌われていて、知られたいけれど知られたくない気持ちが渦巻いている。
当事者たちと小鳥(ナイチンゲール)しか知らず、小鳥はどうせtandaradeiとしか鳴けないでしょう、という終わり方である。
この詩において、tandaradeiは随所に出てきており、リズムをもたらす言葉である。中世ドイツ語のtant(つまらないお喋り)からきている語と考えられ、全体的に饒舌な印象を与える。
それと比べて掲出歌は相手とのことを明かそうとはしない。単なる短歌という音数の制限ではなく、相手の想像を一切遮断しており、「本当の恋」を知っている南天の実は鳴くこともできない。その徹底さが、恋が完結していること、その恋が「本当」のものだったと納得していることを思わせる。
評:榊原尚子 (2013/07/01)

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