一首評〈第129回〉

「薄明に野の祈りれられずくて夜はきしむ卵となりぬ」
中島らも 『全ての聖夜の鎖』

三つの掌編からなる『全ての聖夜の鎖』冒頭、黒地に白抜きの文字で提出歌は綴られている。


日が沈むのが不変の真理ならば、夜を恐れ、どうにか逃れようと願うのも普遍の心理だが、真理とは往々にして平易である。その平易な内容を作品として読ませるまでに洗練し得るのは、韻律や構造をおいて他にない。

二句目の「野の祈り」は、余計な修飾や助詞が無いが故に美しく際立ち、字足らずの違和感は、間延びする「の」の音と「祈り容れられ」のリズムが解消しつつ、ゆるやかに下句へと繋いでくれる。だが、四句目、k音と「斯くて/夜は/きしむ(3/2/3)」の軋んだ韻律はその流れを停滞させ、今まで耽美に浸っていた読み手の内面をも軋ませる。そしてその間に、これまでの漠とした言葉の相を包み込むような真黒い具象の卵殻が夜空にくっきりと現れると、気付いた時には、もうすでにその中に閉じ込められているのだ。上句の儚くも尊い情景と、それを飲み込む下句の残酷なまでのあっけなさ。韻律が与える感情の変化が、内容に上手く即している。
また、この歌は隣接するどの二文節をとっても5、もしくは7、8音となる。この、短歌形式を取る事が必然であったかのような韻律は、鉤括弧、句切れ、結句の完了形やスケールの大きな言葉の多用等と相まって、全体に口伝の神話のような幻想性を演出しており、この歌がどこか神秘的な風格を漂わせているのは、随所に散見される、これらの計算された構成に因る所が大きい。


上述の通り、一首単体で見る限りは、読みやすくも隙の無い秀歌だという印象を受けるだろう。しかし、それがこの歌の恐ろしい所である。跋文によれば、中島らもは執筆時、大量のハイミナール(睡眠薬、合法ドラッグとして使用される事が多かった)を服用していた。


勿論、ここで問題なのはその是非では無く薬理だ。氏は他の作品で、ハイミナール服用時の高揚感、万能感を語っているが、『全ての聖夜の鎖』も同様に、叶わない片思いを紛らわそうとして飲んだハイミナールの高揚感の中、一晩で書き上げたらしい。この執筆速度は、酒を飲むと気が付けば作品が出来ていたという氏の逸話からも、薬物摂取による、自動筆記特有のものであったと推測されるが、そうだとすると、無意識の発露である自動筆記を介して尚、発現するこの技巧は何か。混沌に有る筈の無い秩序を前にして、我々は畏怖の念を抱かずにはいられない。

さらに、無意識というワードは、夜をその喩として取り、薄明を日の出前と読む事で、この歌にもう一つの解釈を与える。当時の氏の意識変容を表したものと捉える読みだ。無意識はこれ以上、自身の内なる祈りを抑圧できず、飽和した祈りも溢れようとその卵殻を内から軋ませているなら、やがて薄明、天啓の如き光が立ち込め、無意識から何かが孵り、祈りは終に届く。そして、その生まれ来る何かが、その後に綴られる物語であるなら、序としてこれ以上相応しいものは無い。


背景や文脈を鑑みる前後で、歌に対する見地が180度変わってしまう事は、ままあるかもしれないが、やはり驚きを禁じ得ない。ただ、日没と日出、理性と偶発性、自然現象と深層心理、神聖と薬物、恐らくどちらが正しいという事は無いのだろうと思う。相反する要素が相克する事無く静かに共存しているこの歌に、凄絶ながらもどこか優しさを感じるのは、そのアンビバレンスこそが正しく人間味の象徴だからかもしれない。

向大貴 (2013年9月15日(日))