一首評〈第136回〉

鳥 教会 草 雨 ガラス 君の言ふものにひたりとわれはつまづく
澤村斉美 『galley』「210号室」

列挙されている単語に共通しているのは、透明感と何気なさだと思う。鳥も教会も草も雨もガラスも、決して珍しいものではない。主体たちのいる世界にのみ存在するものではないだろう。取り合わせの成功が何気ない単語により透明感を与えている。単語を見る視点が、大きさや遠近においてぱたぱたと切り替わるのがおもしろい。
鳥、で小さめのものを見る。教会、で大きなものを見る。草、は地面近くに広がるもの。雨、は空間を埋めるように存在するもの。ガラスを見るとき、どんなガラスなのか言及がないので、ガラスというものの総称としての「ガラス」を指しているとも考えられる。風景を見ながら言っているとすれば窓と読むのが自然かもしれない。鳥がいて、教会がある情景のなかできらめき反射するガラスたちを、見る。
そして、それらの感じが列挙のすぐあとにつづく「君」にも影響し、透明感を与える。
単語の列挙の感じから、ひとつひとつ指さしながら視線をうつしていくような感じがある。「ひたり」という言葉は裸足で床かなにかの上を歩いていて立ち止まったときの擬音語のようだが、他のところからはそういう状況は読み取れない。むしろ、歩いているとしたら屋外を散歩しているような感じがする。単語の列挙の間に挟まれた空白が、歩きながら指さしているような速度を感じさせるからかもしれない。だからといって、このうたが屋外を歩いているということにはならないけれど。
「つまづく」はこのうたにおいてはアクシデント的要素を含んだ「立ち止まる」程度の意味につかわれていると思う。「ひたり」はそれを補強し、立ち止まる動作に感触を与えているのではないか。

北村早紀 (2014年7月23日(水))