一首評〈第140回〉

こんにちはみなさんたぶん失ってきたものすべて うれしいよ会えて
柳谷あゆみ (「こんにちはみなさん」/『ダマスカスへ行く―前・後・途中』)

掲出歌は柳谷あゆみが3年のダマスカスでの生活から日本へ帰ってきた章のはじめの一連に収められていた。


初句、こんにちはと「みなさん」へ呼びかけており、さらにこの挨拶は相手が「失ってきた」であろうもの「すべて」にも向けられている。もしくは、「みなさん」とは「たぶん失ってきたものすべて」であるという風にもとれる。そして一呼吸おいて告げられる「うれしいよ会えて」は「失ってきたものすべて」に対しての言葉であり、「みなさん」にも向けられている。

みなさんの後の助詞がないことで「みなさん」がなにかを失ってきたことの主体であるという推測と、みなさん=失ってきたものすべてという推測が生まれ、この曖昧な並立のなかで「たぶん失ってきたもの」に伴う情感が浮かび上がってくる。そしてストレートな「うれしいよ」という言葉で主体は失われてきたものたちとの出会いを迎えいれている。


主体はいまここで、誰かの体験した個々の喪失の総体と丸ごと対面している。「失ってきたもの」という言葉はさびしさ、かなしみ、なつかしさなどを引き寄せ、失う前の過去を思う気持ちを想起させる言葉だ。出会った対象がそのように他者の過去のさびしさをもち、さらに出会いという体験自体もさびしさを伴うことを主体は「会えなかった」可能性とともに自覚している。ここでの出会いは自己と他者(たち)との喪失を挟んだ出会いであり、そのためこの出会い自体もまた未来の喪失を含んでいることを意識させられる。出会いの一回性を知って、一呼吸置いたあと主体は「うれしいよ会えて」と発話する。

つまり主体は挨拶をして対面しているものが誰かの体験の総体であると思ったとき、この出会いもまた失われていくものだと気づく。向き合ったこの瞬間に自分もまたたぶん何かを失ってきた/いくのだろうという予感を感じながら、他者が失ってきたものたちに出会うことは同様に繰り返していく一回性のひとつと気づいたため、うれしいよと告げる。


ここには慣用的な「会えてうれしいよ」では表せないものがあると思う。それは感情だけを先にこぼしてから理由を言い添えるような倒置の効果と、「すべて」と「会えて」の音の共鳴の効果がある。さらに前半での助詞が抜けているという文法的な破綻に対してより軽い乱れが最後にも繰り返されることで均衡がとられているからではないかと感じた。

田島千捺 (2014年10月1日(水))