一首評〈第66回〉

背にひかりはじくおごりのうつくしく水から上がりつづけよ青年
佐藤弓生 『世界が海におおわれるまで』

「おごり」というマイナスの意味でとられることの多い言葉。
それが「ひかりはじく」と「うつくしく」というプラスの言葉にまるでオセロのように挟まれて輝いている。
キリスト教の七つの大罪において「驕り」を象徴する悪魔は堕天使Luciferである。
神に挑んだ反逆者。
いささか深読みな気もする。しかし、「おごり」の輝きは悪魔的に美しい。このスイマーと思しき「青年」の、神にも逆らいかねない全能感がむきだしになっている。
「水から上がりつづけよ」。「人は水から上がり続けることはできないのだが、この歌のようにそう命令されてしまうと、まるで録画の同じ場所を何度も再生して見ているような錯覚を起こすところがおもしろい」と東郷雄二が述べているが、瞬間の永続的な再生、ここでは一刹那の時間が永遠に等しい強度で描かれている。東郷はここでの「水」を生のシンボルという風に捉え、歌全体を青年の生命力の輝きを描くものと捉えているのだが、瞬間の永遠化はまさにそれを強調するものであろう(*)。
しかしそれとはちがった読みも可能かと思われる。
上句の描写はまさに現在の一瞬を切り取ったものであるが、下句においてそう命じる作中主体の視点は、あくまで現在にとどまりつつも、現在を超えている。スイマーとして自己と闘い続ける「青年」のぬれて光る背に凝縮され、投影された、彼の過去、そして未来を見据えているかのようだ。
それは「青年」への賛歌であるが、「いつか挫折の日がくる」という皮肉なメッセージを含ませたものかも知れない。
「おごり」という言葉がそれを匂わせる。Luciferは神に敗れ、天を追われるのだから。


*:ちなみに東郷は、歌全体をメタファとみなし、「青年」をスイマーとは捉えていないように思える。

吉岡太朗 (2007年7月1日(日))