一首評〈第81回〉

沈黙はときに明るい箱となり蓋を開ければ枝垂れるミモザ
服部真里子 『短歌研究』2009年9月号「天体の凝視」

 通っていた高校の、一般教室の棟から理科棟へと続く小道に一本のミモザの木があった。春にはふわふわした鮮やかな黄色の花をつけ、そばをよぎっただけでもはっとするほどの芳香がある。美術の先生は無口で小柄なおじいさんで、いつも毛玉の浮いた薄手のセーターを着ていた。彼がズボンのポケットに両手を突っ込んで、よく一人ぽつんとミモザの木を見上げていたのを覚えている。
 沈黙にはさまざまな種類がある。残念ながら、実際には気まずいものや押しつけがましいものが多いだろう。沈黙というからには、どうしても相手が要る。必ずしも同一のことを考えている必要はないけれど、気分やらテンションやら、そういった感覚的なところでどこか繋がっていないと掲出歌のような上質な沈黙は存在し得ない。
 箱、しかも明るい箱。立方体や直方体は、どこか完結した感じを与えると同時にうっすらと喪失感を漂わせている気がする。上句を読んだ時点で、主体の視点は箱の内側にあるのでは、と直感的に思ってしまった。教室のような箱的空間の角の部分を内側から見ると、とても悲しい。とてもしんとしている。内壁の色は間違いなく白だろう。それも塗料の白ではなく、沈黙という箱のなかにきらきらと満ちている光の白さである。ありとあらゆる時間の感覚を失くして、ただそこに存在するだけ。ただ明るいと感じるだけ。
 いよいよ蓋を開けるという段になって、主体はいつのまにか箱の外側に立っている。主体が大きくなったり小さくなったりしているのではなく、沈黙という箱は自在に大きさを変えられるのだ。蓋を開けると、ミモザの枝が黄色い小花をいっぱいつけて垂れる。このミモザの花は、沈黙のあとに発せられた甘ったるい言葉の比喩などではないと思う。ミモザの花言葉は「豊かな感受性」。枝が垂れる瞬間、この世界の重力がふっと意識される。沈黙という箱からあふれだすミモザのように鮮やかな感情。それは枝の重さを核として、辺り一面に広がっていくのである。

大森静佳 (2009年11月15日(日))