一首評〈第94回〉

パラソルをかざしてゆくよ有史より死者は生者の数をしのぐに
佐伯裕子 『あした、また』

 最近、私の鞄にはいつも現代短歌文庫『佐伯裕子歌集』が入っているので、今回はこの歌人について紹介したい。
 佐伯裕子は1947年生まれでこれまでに6冊の歌集を持ち、現在「未来」の選者である。東京裁判でA級戦犯として処刑された土肥原賢二は祖父。このことから、歴史、戦争、家族といったテーマが生まれたことは必然だったかもしれない。

 まず、戦争詠からいくつか引いてみる。

次第なくふりし降伏の手と思えば幾千の手に生かされて来ぬ 『未完の手紙』
月央つきなかへさすらう遊びにふけりおり敗将たちを樹に呼び寄せて 『寂しい門』

 どちらも一首の中に物語があるのが特徴である。

 次に、家族の歌を見てみたい。

すもも咲く天のいずこの華やぎぞつたなく父が母押し倒す 『春の旋律』
夜に濡れ母がわたしを産みにくる産めば気持がよくなるという 『寂しい門』
悲しみを先送りするこの国にほどよくやさしく息子太りて  同上

 いずれも家族に対する悲しみと愛しさの入り混じったまなざしが感じられ、ほんの少しだけエロスも滲む。

 また近年は社会詠の作者として取り上げられることも多いようだが、「生と死」や「時」を扱った作品にも、とても惹かれるものがある。

長髪のカインとアベルは日向ぼこ時のゆらぎに樹影落ちたり 『寂しい門』
こんな明るいコートがいいな死のきわのわたしの視野に君顕たしめん 『未完の手紙』
夢みるは死ぬるにひとしやわらかに茘枝れいしの黴もふかみていたり  同上
産みっぱなし産みっぱなしの胸飾り風にふくらむ秋のめんどり  同上

 (今回ちょっと歌を引きすぎていますが、ただ読んでもらいたかっただけです。)
 
 そして、掲出歌について。『あした、また』という歌集に収められている、「荒地」の詩人・北村太郎の詩との合作「詩の死 歌の死」より引いた。三句目以降は当たり前のことを言っているようだが、私たちは生者・死者を思い浮かべる場合に普通は現在に限って考えると思う。「有史より」、ここが大切で、作者独自のまなざしだ。なるほど言われてみれば、人類の歴史が始まって以来、死者はつねに生者を圧倒してきた。その死者たちの歴史の道、それはそれは広く長い、乾いた道を、生者である作者は「パラソルをかざしてゆく」のである。夏の外出といったもっと日常的な場面を思い描いてもいいだろうけれど、パラソルの影を与えることによる、死者たちへの鎮魂の思いがそこに込められていることは間違いない。

 最後に相聞歌にも好きなものがあるので、また(!)挙げて終わりにしたい。

君という過ぎし時間が一むらの青藻のおくに宿りていたり 『未完の手紙』
かなかなやわれを残りの時間ごと欲しと言いける声の寂しさ 『あした、また』

大森静佳 (2010年12月7日(火))